仕事術の本を閉じても、悩みは減らない
締め切り前に限って、依頼が一気に重なることがあります。一つずつ片づければ早いのに、つい同時に手をつけてしまいます。結果、どれも中途半端なまま夕方を迎える。こうした経験はないでしょうか。
翌週には、また別の種類の悩みがやってきます。どこに置いたかわからない資料を、また一から探し直す。誰かに聞かないと進められない作業が、その人の休み中に止まる。会議の場では合意したはずなのに、翌日には認識がずれている。
世の中には仕事術の本があふれています。手帳の使い方、優先順位のつけ方、資料の整理法。どれも一理あります。ですが、なぜそれが効くのかまでは教えてくれません。効かなかったときに、次にどう直せばよいかも教えてくれません。
本書は逆の入り口を選びます。コンピュータサイエンス(以下CS)という、コンピュータの仕組みを扱う学問の教科書を開きます。コンピュータが「同時に見えて実は順番に処理する」「待ち時間をどう埋めるか」「よく使うものをどこに置くか」を工夫してきた歴史は、人間の仕事の悩みと驚くほど重なります。
なぜOSやアルゴリズムが仕事に効くのか
コンピュータも人間の仕事も、限られた処理能力を複数の依頼にどう配分するか、という同じ問題を抱えています。違うのは、コンピュータの世界ではこの問題に何十年もかけて名前がつき、型ができ、失敗のパターンが整理されてきたことです。
たとえばパソコンが重いと感じるとき、中では作業を切り替えるための余計な手間が発生しています。これをコンテキストスイッチ(作業の切り替えにかかる余計な手間)と呼びます。人間が会議とメールとチャットを行き来するときにも、同じ種類の手間が発生します。名前がつくと、対処法も探しやすくなります。「切り替えのコストが高いから、まとめてやろう」という判断がしやすくなるからです。
もう一つ例を挙げます。探し物が多い職場では、資料の置き場所そのものより、「探し方の仕組み」が壊れていることが原因のことがあります。CSにはインデックス(探す手間を減らすための索引の仕組み)という考え方があり、これは本棚の並べ方にも、共有フォルダの設計にも応用できます。
こうした工夫の多くは、限られた計算機を大勢で共有していた時代に生まれました。一人が使い切ってしまうと他の人の仕事が止まる、という状況の中で、公平に、かつ無駄なく資源を配り直す方法が磨かれてきたのです。これは、一人の担当者が仕事を抱えすぎて周りが止まる職場の状況と、構造としてよく似ています。
CSにはこうした「名前のついた工夫」が、これ以外にも大量に蓄積されています。本書はそれを一つずつ、職場の場面に翻訳します。翻訳であって、比喩合戦ではありません。仕組みの理屈を理解したうえで、仕事に持ち込める形に置き換えます。
翻訳という方法論
各章は同じ型で進みます。まず、CSの概念を仕事とは無関係な形で説明します。次に、それを仕事の言葉に置き換えます。そのあと、職場でありそうな場面を2〜3個示します。最後に、その考え方を誤って使うとどうなるかという落とし穴を示します。
この順番には理由があります。先に仕事の場面から入ると、その場しのぎのテクニック集に見えてしまいます。先に仕組みを理解しておくと、応用が利きます。場面が変わっても、原理に戻って考え直せるからです。
落とし穴の説明を必ず入れるのにも理由があります。どんな考え方にも、効く条件と効かない条件があります。条件を無視して使うと、かえって仕事を混乱させます。本書は「これさえやれば解決する」という書き方をしません。
各章の中身(1ページ10分・全6ページ)
各章は6ページで構成し、1ページを読了10分程度にそろえています。1ページ目は、その章が扱う問いを、職場のありがちな場面から提示します。まだCSの用語は出さず、悩みの輪郭だけを見せる回です。
2ページ目から5ページ目は、1ページに1つの概念だけを扱います。まずCSの概念を直感的に説明し、次に仕事の言葉に置き換えます。そのあと具体的な場面を2〜3個示し、最後に誤用の落とし穴を示します。1ページで完結する構成なので、途中で読むのをやめても損はありません。
6ページ目は、その章の内容を振り返り、次の章に橋を渡します。橋といっても強い前提にはしません。各章は独立して読めることを優先しているためです。「◯章で見たように」という程度の軽い参照にとどめてあります。
小さな実例で先取りする
先に、翻訳がどういう手触りかを2つだけ見ておきます。1つ目は、複数の作業を抱えたときの話です。コンピュータは、実は複数の作業を同時に処理しているのではなく、短い時間ごとに切り替えながら順番に処理しています。この切り替えには、切り替え自体のコストがかかります。たとえば、報告書の作成中に電話が入り、また報告書に戻るとき、どこまで書いたかを思い出す時間が余計にかかるようなものです。このコストの正体を知っていると、「なぜ同時並行が非効率に感じるのか」を説明できるようになります。1章で詳しく扱います。
2つ目は、よく使う情報の置き場所の話です。コンピュータは、頻繁に使うデータを、処理速度の速い場所に一時的に置いておく仕組みを持っています。これをキャッシュ(よく使うものを手元に置いておく仕組み)と呼びます。仕事でいえば、よく参照する資料をすぐ開ける場所に置いておくことに近いものです。ただし、手元に置いた情報が古くなったまま気づかずに使ってしまう、という落とし穴も同時に存在します。この点は4章で扱います。
こうした「直感的な説明→仕事への言い換え→場面→落とし穴」という流れを、本書は12章にわたって繰り返します。
本書の地図(全12章・3部構成)
本書は3つの部に分かれています。章タイトルは次のとおりです。
第I部 自分のOS(1〜4章)は、一人の仕事の中の話です。
第II部 仕事のアルゴリズム(5〜7章)は、仕事そのものの進め方の話です。
第III部 チームのアーキテクチャ(8〜12章)は、複数人が絡む仕事の話です。
- 8章 同じ仕事を二度しない — DRYと共通化
- 9章 業務の棚卸し — デッドコードと技術的負債
- 10章 会議と報告を設計する — インターフェースとプロトコル
- 11章 属人化という単一障害点 — 分散システム
- 12章 情報は一箇所に — データベース
3部の流れにも意味があります。第I部は自分一人の作業机の中の話です。第II部は一人で抱える仕事の進め方の話です。第III部は複数人が関わる仕事の話へと視点が広がります。1章から順に読むと、この広がりを体感できるように並べてあります。
12章を読み終えたところで、終章がこの地図をもう一度、症状から章を引ける形で並べ直します。今、目の前で困っている場面があるなら、先に終章を見て、該当しそうな章から読み始めても構いません。
なぜ「教科書」という形を選んだのか
仕事術の本の多くは、独立したコツを何十個も並べる形をとります。コツを覚える分には便利ですが、コツ同士のつながりは見えません。あるコツが効かなかったとき、次にどのコツを試せばよいかもわかりません。
CSの教科書は違う積み上がり方をします。基本の概念を先に固め、その上に応用の概念を積み上げていきます。プロセスの仕組みを理解してから、スケジューリングの話に進む、という具合です。本書もこの積み上がり方を維持しています。第I部で自分一人の作業の仕組みを扱ってから、第III部で複数人が関わる仕組みへと進むのはそのためです。
コツの一覧ではなく、地図を持つことには利点があります。新しい種類の困りごとに出会ったときも、「これは前に読んだあの章の問題と同じ構造ではないか」と気づけるようになります。気づければ、対処法を一から探さずに済みます。
誰のための本か、どう読むか
CSを専攻していなくても、大学生レベルの前提知識があれば読めるように書いています。数式やプログラムのコードは出てきません。必要な概念は、その章の中で一言ずつ定義します。すでにCSを学んだ人にとっても、職場への当てはめ方を確認する材料になります。逆に、CSにまったく触れたことがない人ほど、本書で扱う考え方を新鮮に感じられるはずです。
各章は独立して読めるように作ってあります。前の章を読んでいなくても、次の章の意味は通じます。移動時間や休憩時間に、1ページ10分程度で読める分量にしてあります。音声で読み上げても意味が通るように、複雑な図に頼らない書き方にしています。
好きな順番で読んでも構いません。今の悩みに近い章から開いてください。1章から順に読めば、自分の作業机からチームの仕組みへと視点が広がる構成にもなっています。
一つだけお断りがあります。本書はプログラミングの入門書ではありません。コードを書けるようになることは目的にしていません。目的は、コンピュータが磨いてきた考え方を、仕事の判断に借りることです。
読み方について、もう一つだけ提案があります。最初から最後まで一気に読み切る必要はありません。1ページ読んで、その日の仕事の中で試してみて、うまくいかなければ同じページに戻って読み直す、という使い方を想定しています。本棚に置く本というより、困ったときに開く手元の一冊として使ってください。
持ち帰り
- 仕事術の「やり方」より先に、CSが積み上げてきた「なぜ効くか」を借りる
- 各章は同じ型(直感の説明→仕事への翻訳→具体場面→落とし穴)で進むので、途中の章から読んでもよい
- 困りごとがあるときは、終章の地図から該当章を逆引きしてよい
やってみる
次にタスクが重なって手が止まったら、「これはコンピュータで言うと何の問題に近いか」と一度立ち止まって考えてみてください。答えが浮かばなくても構いません。その問い方を持ち帰るだけで、次の章からの読み方が変わってきます。